ここで、せっかくですから、どのような形で作品を仕上げているかをお見せしま
しょう。半紙サイズ(33cm×24cm)の紙に印影を押し、落款を入れます。
展覧会の篆刻作品と言えば、ほとんどがこの大きさです。
図録に書作品なら全体が掲載されているのに、篆刻は印影のみが掲載されている のは、全体が作品である事を思えば、何だか変にも思えます。しかし、図録に は、多くの作品を掲載するのが常ですので、一作品が占めるスペースも自ずと 限られてきます。小さなスペースに、篆刻作品の全景が入ると必然的に 印影が小さくなり、見たい印影が良く見えないと言う事になってしまいます。 私は図録の編集者ではないので本当の所は知りませんが、恐らくそんな理由で 印影のみ掲載されているのだろうと思います。
もう一つの作品形式をお見せします。これは半切の2/3の大きさ
(90cm×35cm)で、篆刻作品としては大作です。御覧のように五顆
(印材の個数を数える時に使います)ツ印していますので、その作成時の苦労は半紙作品
の比ではありません。なお、ツ印する印の数が、決まっているわけでは有りません。
これは、自然を詠んだ句を集めて一つの作品にしたものです。作品は、掛軸にして 展示します。また、この作品は全日本篆刻連盟の上海展に出陳したものでもあります。
実は、この作品の大きさは、海外展用に決められたものです。この様な時でないと この大きさの作品は作りません。上海展の時は、連盟会員のこれと同じ大きさの作品200点 ほどが陳列されましたので、並んだ様は、なかなか壮観でした。
篆刻作品は、この様な形で発表されます。過去に日展では、印影だけでなく印材 も審査対象になっていたそうで、印材調達に苦労があった事が推察されます。私自身は 印材を出品した事はありません。
さて、前置きが多少長くなりましたが、書と篆刻の係わり合いについて、 述べてみたいと思います。
私は書が苦手です。子供の頃からそうでしたし、今でもそうです。 でも敢えて言わせてもらえば昔よりは相当良くなりました。(今が良いと言う 意味ではなく、昔がひどかったという意味です)
実の所、篆刻を始めた後でも、自分の書が下手である事は認めていても、 開き直りと言うか、良くわかっていないと言うか、このままで良いではないか とさえ思っていました。 一つには、私が理科系の道を歩んできた事もあると思います。周りには、 字の巧拙を言う人はいませんでした。判読できない文字は論外ですが、意味を 伝える事が出来ればそれで十分、と言う意識しかありませんでした。
印影が出来上がった後、落款を毛筆で入れます。しかし、印を刻す事に夢中 にはなっても、落款を入れる段になると、既に息切れ気味で、時間もないし、 とにかく早く終わらせたい、また、ちょっと練習した所で今更上手にはなら ないから、等と考えていたようです。 結局、忙しい事を書を稽古しない理由にしていたのだと思います。
意識が変わってきたのは、やはり展覧会に入選したい、より良い賞を貰いたい と言う欲が出て来たからに他ならないでしょう。展覧会で恥ずかしい思いを したくないと言う意識も多分に働くようになりました。展覧会の功罪と言う事も言われます が、将に此の点に於いては「功」なのでしょう。しかし、展覧会と言う物は、 何と人間の欲を引き出すための様々な工夫がしてあるのでしょうか、この点 に於いては、ロールプレイングゲーム(テレビゲーム)と似た所があります。
ロールプレイングゲームは、主人公を操作する事によって自分自身がゲーム中に 参加している(主人公の役割を演じている)様な気分になるゲームです。ドラゴン クエスト、ファイナルファンタジー等が代表的なゲームです。
幾多の試練を乗り越えて、主人公が成長し、また、仲間を得たり、道具を得たり してゲームのストーリーが進展していきます。時には、運試しがあったり、推理力 を働かせなければいけなかったり、人の助けを借りないと進めない事があったりと、 何とまあ人生の縮図のようなゲームです。私も一時随分のめり込みました。しかし、 最近はゲームをする気力が続かなくなって しまいました。一方、小中学生(2003年現在)の息子達が今のめり込んでいます。どんなに 面白くても、所詮ゲームの中の世界の事、ゲーム機のスイッチを切ってしまうと、 ゲームの世界の自分 (主人公)は成長しているのに、現実の自分は時間を浪費しただけ、と言う事に 気づくのにどれだけ時間がかかった事でしょう。息子達もその事を何時の日にか気づいて くれると思っています。(浪費していると気づいていてもゲームのスイッチを入れ ていましたけど・・・。結局、息子達も気力が続く限りはゲームをするのかな?)
そんな訳で、篆刻とゲームは・・・、いやいや、そんな話をしていたのではなかったですね。 展覧会で苦労すると、たとえ展覧会で思ったような結果が得られなくても(ゲーム と違って)自分自身に その分の力が付いて行く事は確かです。何もイベントが無いと、私の様な、ものぐさ太郎 は、なかなか勉強が進まないようで困ったものです。
書と篆刻の関係でもう一つ思うのは、一枚の紙に毛筆で書く時間と、一顆刻り 上げる時間との差の事です。決して展覧会に出すような作品の事を言っているのではあり ません。展覧会に出すような作品は、書作品も構想を練り、何度も書き直し、更に構想を 練り直し・・・と言う事の繰り返しでしょうから、書作品だから短時間で出来る事は決 してないと思います。しかし、稽古として 例えば臨書を一枚の紙に書く時間と、篆刻の臨書である摸刻(本当は「摸」の異体字 を使うべきなのですがパソコン上に表示出来ませんのでお許しを)を一つ刻りあげる までの時間との差の事です。 一枚書いて1ステップ上達するとしたら・・・、一顆刻って1ステップ上達するとし たら・・・、篆刻の上達は非常にスローペースに成らざるを 得ないのだろうか?等と言う事を考えたりします。
作品の大きさを考えてみましょう。書作品は242cm×61cmの大作も珍しく ありません。一方、篆刻はせいぜい6cm×6cmです。面積比で約400倍の差があります。
見方を変えて、作品の濃淡を考えてみましょう。書作品に於いては、にじんでいる所 かすれている所が存在しますが、篆刻作品の場合、印泥の付き具合に変化を付ける事は 無いと言っ ても良いでしょう。篆刻作品では基本的には印泥が付いているか、付いていないかの 表現になります。言い方を変えると、書作品はアナログ表現ですが、篆刻作品はデジ タル表現です。アナログ表示された1点を8ビットのデジタルで濃淡を表現出来るとし たら(これで256階調の濃淡を表せる事になります)、デジタルでは8倍の密度で 表現しなければならないと言う事です。
これを、先ほどの面積比と合わせて考えると、何と400×8=3200倍の 密度が必要と言う事になります。
そうなのです。篆刻作品を、書作品に伍した作品にするためには、単位面積当たり 3200倍の内容が必要と言う事になります。そのためには、 狭い印面の中の、「朱と白の構成」で勝負するしかないのです。篆刻が「無限の 広がりを持つ小宇宙」とも言われるのも、その密度の事を言っているのでしょう。
誤解を招かないように一言付け加えておきますが、別に、密度だけが作品の良し 悪しの判断基準になるものではないです。しかし、篆刻は、元々「方寸の世界」と 言われるように、小さな世界ですので、作品価値を高めるには密度を上げるしか 方法がないのです。その事を強調したいだけのために、密度云々の話をしました。
書と篆刻の違いについてもう一つ言うと、書は筆で黒い部分をプラスしながら 制作して行くのに対して、篆刻では、将来、朱色になる所を印刀でマイナスしながら 制作していきます。そうか、書と篆刻とはプラスとマイナスほどの違いがある・・・と 思ったら、そうばかりではありません。白文印(文字が白抜き)を思い浮かべてみると、 白くて何も無い所を刻る事で作っているのですね。つまり、マイナスをプラスして 作っているのですね(ほとんど意味不明)。なんだか不思議な世界だとは思いませんか?
「篆刻は書法の勉強を先行せよ」とは、全日本篆刻連盟会長の小林先生が常々おっ しゃられる言葉です。篆刻に必要な書法の勉強は、単に落款を上手く入れるために必要なのでは なくて、篆書の研究を十分行い、篆書の結構、運筆を体得するために必要なのです。 それがなくては篆書の理解を深める事はできず、延いては篆刻の理解を深める事は 出来ません。
私自身は、書法の勉強が遅れている様な気がしています。 この事は、篆刻に自信があると言う意味では毛頭ありません。あくまで私自身 の中で篆刻と書法を比較した時の話です。(それくらい書法はひどい・・・)
書法の勉強が進んだ人の方が、篆刻の習得も早い事は確かだと思います。しかし、
書法を勉強してから、篆刻の勉強を・・・何て事を思っていると、書法の勉強自体が
一生かかっても終わりの無いような深い世界なのですから、篆刻の勉強まで行き着く
事は難しいでしょう。書法の勉強はそこそこでも、篆刻の勉強を開始して、後は書法
の勉強も平行して・・・と言うやり方がレベルの低い段階では現実的ではないでしょうか。