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コロナ禍中にて

 そもそも、コロナとは、輝かしい名前のはずです。コロナは、ラテン語で「冠」の意味。 私が、コロナと聞いて、一番に思い浮かぶのは、太陽のコロナでした(今となっては過去形)。 さらには、トヨタ・コロナマークU(ちょっと古いですが)、コロナ株式会社(暖房器具等の優良企業)があります。 最近知ったものには、コロナホテル、コロナ美容院もあります。元々、良い言葉なのですから、 コロナの名を冠した社名、製品名があるのは、当然でしょう。 それが、今や「コロナ」と言えば、最大の悪者になってしまって、当事者は、嫌な思いをされているのではないでしょうか。 SARSやMERSの様な名前に、なぜならなかったのでしょうか?

 このところ、ニュースは、新型コロナウイルス関連だらけ。スポーツニュースも、自粛とか、延期の話ばかり。 そういえば、最近、ニュースを見る時間がやたらと増えました。

 中国の武漢で感染が始まった頃(2020年1月頃)は、対岸の火事の様な感じでしたが、 あれよあれよという間に日本全国に広がってしまいました(世界中にも)。そして、全国で緊急事態宣言(4月16日)。 マスク、消毒液の売切れ状態が続きました。この拙文を書いている今(6月)は、一応、緊急事態宣言が解除され、 学校も再開・・・と言う段階です。

 そういえば、新型コロナウイルス発祥の地と言われている武漢には18年前(2002年)の年末に行った事があります。 三峡ダムの建設前に三峡下りをしたいと思い行きました。その時、最初の宿泊地が武漢でした。 武漢で見た、黄鶴楼の雄姿と、湖北省博物館の青銅製楽器(編鐘)は、今でもはっきり覚えています。

黄鶴楼
湖北省博物館の青銅製楽器(編鐘)

三峡下り船上から
白帝城

 さて、緊急事態宣言中は、私の教室もほとんど休みの状態にしました。 しかし、私は、コロナの影響をあまり受けなかった部類に入ると思います。 なぜなら、もともと零細教室である事と、教室の時間以外は、書・篆刻をやっている時間が多くて、外出自体をあまりしないのです。 書・篆刻をやっていると、時間がいくらあっても足りません。 紙等の消耗品は、通販でも入手出来るので、長期間の籠城でも大丈夫! 篆刻は、書よりも消耗品の消費量が少ないのです。 篆刻の中で、消費量の多い印材は、一度刻しても、印面を磨り潰して再利用という究極の材料節約方法もあります。 もはや、死ぬまで籠城できる!?

 籠城と言っても、家から一歩も出ないわけではありません。朝夕30分程度の散歩と夕方1時間程度の草取り等の庭の手入れは、 欠かせない日課になっています。わが家は熊本市内でも、片隅の田舎の方ですので、 人と人との距離を気にする事なく散歩する事ができます。 また、庭の手入れをサボっていると、庭が森になってしまいます(随分オーバーな表現ですが)。 昔はイヤイヤやっていた庭の手入れも、今では自分なりに庭の変化が楽しめて、気分転換の時間にもなっています。 書・篆刻ばかりしていると、首筋や腰がガチガチに固まってしまうのです。 そのままにしていたら、肩こり、腰痛に悩まされるのは必至です。 近年、高くなりすぎたコレステロール値を上昇させないようにするためにも、努めて体を動かしています。

 書・篆刻をしながら、考えました。なぜ、いくら時間があっても足りないのでしょうか? 簡単に言ってしまえば、芸術には終わりがないからでしょう。いくらやっても、もうこれで良いと言う所がないのです。 もう少し踏み込んで、書・篆刻のどこに、どんな風に時間を費やしているのか、作品作りの行程を思い浮かべながら考えてみました。

 下の図は作品を作る上でどの工程がどの位のウェイトを占めているかを示すイメージです。 それぞれに掛けている時間と言っても良いかもしれませんが、あくまで私個人のイメージです。 また、一直線に作品が出来上がるとは限らず、途中の工程から前の工程へ、 もしくは最初の工程へ戻る事もありえます。


 篆刻で一番時間を掛けるのは、印稿作りです。一番苦しい時間ですが、一番楽しい時間でもあります。 鉛筆でざっと書いて、大体の構成を考えます。そして印材に合わせた大きさの印稿を墨と朱墨で書いて行きます。 最初はぼやっとした形が、墨と朱墨のせめぎ合いの中で少しずつ整って行く過程が楽しいのです。 良い知恵を拝借するために印譜をひもといてみたり、日を改めて見て欠点を見つけたりしています。 もう筆を入れる所がなくなったら印稿の出来上がりです。 後は、印面へ鏡文字で転写(布字)→細心の注意を払いながら、でも大胆さを忘れずに刻し(運刀)→(押印)と、 一直線に進められます。作品を仕上げるには最後まで神経を使います。 出来上がった時は、それなりに満足感はありますが、欠点も見えてきます。 そんな時は、やり直さなければならないのでしょうけど、時間切れ、気力切れで終わってしまうことも・・・。

 一方、書はどうでしょうか。草稿作りにはそれなりの時間を掛けます。しかし、所詮、鉛筆書きの草稿なので、 筆で書いて見ると、草稿のイメージとは違う所が沢山出てきます。結局、筆の練習をしながら、部分的に、また全体的に 手直しをして行きます。 書では、この練習が大変で苦しいですが、少しずつでも書けるようになっていく感覚があって、楽しい所でもあります。 この過程では、安い紙や裏紙も使って、気が済むまで何度でも書きます。なかなか格好がつかない所が、ビシッと決まれば嬉しいです。 しかし、一度書けても、もう一度同じように書けるとは限らず、苦しみが再度襲ってきます。 練習が終わったら、清書に入りますが、練習との境目は、曖昧な所があります。清書は、精神をすり減らしながら書き直しが続く辛い所です。 満足できなくても、時間切れ、気力切れにて終わりになります。 書き直しを続けているうちに、自分の限界も見えてきて、これ以上続けても仕方ないかな?と思う時もあります。

 篆刻と書は、その原稿(印稿、草稿)の完成度が違います。篆刻の印稿は、完成作品に相当近いです。 一方、書の草稿の完成度は低く、書きながら完成度を高めていく必要があります。 だから、原稿ではなく草稿と言うのだろうと思っています。
 なぜ、原稿の完成度が違うのかというと、 一画の両面に刀を入れる「篆刻」と、一画は一筆で書く「書」の違いでしょう。 その作品の大きさと、1つの作品を仕上げるまでの時間の違いもあるでしょう。
 もし、篆刻で刻す時間が短かったら、印稿は無し、もしくは大雑把になるかもしれません。 そういえば、中国で、目の前であっという間に印を作る人を見た事があります(印稿・布字は無し)。
 もし、書で1枚の書作品を書くのに、もの凄く時間がかかったとしたら、精密な草稿を作るようになるでしょうか? いや〜これは、想像出来ないです。そうなると、書ではなくなるかもしれません。 「草」と言うのは、簡単、粗末という意味ですから、「精密な草稿」とは、もはや意味不明です。
 篆刻でも、印稿を超える作品を作るのが理想です。そのためには、刀の勢いが必要です。 書においては、草稿で練った形に、筆の力で命を吹き込まなければ作品になりません。

 さて、それぞれの楽しい所には共通点があるように感じます。 なんだかボンヤリしたものをカッコ良くしていく過程が苦しいのですが楽しい気がします。 苦しい原因の大きな要素に、どんなものがカッコ良いのか、自分自身ではっきり分かっていないという事があります。 どんなものが良いのかを知るためには、先生に教えを乞い、古典を学ぶしかないのでしょう。 しかし、なかなか身につかないのです。それが簡単に出来ないからこそ面白いとも言えますし、個性が生まれる所でもあると思います。

 ちょっと脱線しますが、個性という言葉が出てくると、書における伝統との兼ね合いの事が議論される事がよくあります。 ここでは、青山杉雨先生の言葉をお借りしたいと思います。 「中国の書道というのは、伝承の積み重ねられたものの中から新しい表現が出てくるというところからは逃げようがないですね。 古典・古い資料なしにただ筆を振り回しているうちに何かが出てくるというようなことは、書の場合にはないですね。」  「青山杉雨の眼と書」図録より

 脱線ついでに、もう一つ頭に浮かんだ事を述べます。

 人から教えられて、古典を学んで・・・書道はそうやって伝承されていると思います。 書道界全体を、長期的に考えると、時代の趨勢はあるとしても、はたして進歩しているのでしょうか? いまだに王羲之が書聖であり、それを超える人は出ていないのでしょうか? 一つ確実に言える事は、どんな名人であっても、ゼロから学び始め、その技術はその人の死と共に消滅してしまうという事です。 作品は残す事ができます。理論的な事は、弟子に教え、あるいは文章等に残す事により、それを後世の人に伝える事が出来ます。 でも、腕で覚えた技術は、人と共に消滅してしまう運命にあります。
 一方、科学技術の世界はどうでしょうか?発明家の成果は、文章として、製品として、 後世にそのまま伝えていく事が出来ます。書道と比べると、この「そのまま」と言うのが何と凄い事か! 次世代の発明家は、既存の発明は既知のものとして、それを超える物を生み出していく事ができます。

 書と科学技術の「進歩」の違いは、明確です。書は永遠に人間的であり続け、科学技術は永遠に進歩し続けます。


 書・篆刻をやっていると、どれだけでも一人で過ごせるので、新型コロナウイルス禍中でもあまり影響がない様な事を先に述べました。 興味を持って没頭できる事があるのは、とても幸せな事だと思っています。 しかし、実は、書・篆刻をやっていて一番良かったと思えるのは、 会社を退職後も、書・篆刻を通じて社会との繋がりを持ち続けていられるという事なのです。 しかも、その繋がりは、単なる娯楽ではなく、芸術の香り高い書道に関する繋がりです。 その繋がりのおかげで、充実感がある日々を過ごす事ができていると思います。
 書道界全体の事を考えると、教室の閉鎖、書道展の中止等、その影響は計り知れません。

 社会を分断させる新型コロナウイルスが、早期に終息する事を願うばかりです。 何事もない平穏な日々がどんなに幸せな事なのか・・・しみじみ思ったのが、4年前(2016年)の熊本地震の時でした。 また、平穏な日々のありがたみを忘れかけていたようです。

2020年6月 記

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