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「中国書史」を読んで
書の勉強をしていれば、書道史も勉強するべきなのは、承知しているつもりなのですが、
とかく書道史の勉強はおろそかになりがちです。
自分の不熱心さを棚に上げて、あえて言わせてもらいますが、書道史はあまり面白くないんです。
書道史の本を読んでも情報の羅列のように感じてちっとも頭に残りません。
そんな時に出会ったのが、次のホームページです。
多木洋一「書を楽しむ法」
このホームページの中の、第三章 書を楽しむ法(応用編)「十一 書道史を考える」の中に、石川九楊著「中国書史」の紹介があり、
「書道史としてはこれが唯一のお勧めです」とまで書かれていました。
多木先生のホームページは、どこを読んでも、とても参考になる事が書かれていますし、
著者の石川先生の文章は「書の宇宙」シリーズで読んで、感銘を受けた記憶がありました。
多木先生が推薦する石川先生の本なら間違えない・・・と考え、
大枚1万円をはたいて購入して、その大冊ぶりに納得しました(本の大きさで納得するのか!)。
一応読了したのですが、いったい何年かかった事でしょう。時々思い出したようにしか読んでなかったのが一番の原因なのです。
でも、それだけが原因ではないんです。細かく読んで行くと、とにかく時間がかかるんです。
難しい言葉も多く出てきます。先を急いで読み飛ばして行くと、途端に面白くない本に変身してしまうんです。
そんな時は、戻って読み直しです。何度かそんなことを繰り返した後は、あきらめて精読しました。
特に古典の一点、一画を事細かに読み解いて行くくだりは、図版を参照しながら読まなければならないので、とても時間がかりました。
なるほど、そんな見方をするべきなのかと言う事の連続でした。この「読み解き」は、色々な古典でなされています。
本来ならば、実際に筆を執って、一字一字臨書して、納得しながら読んで行くべきだろう、とも思いました。
でも、本当にそうしたら、読了まで、さらに年数を重ねていたことでしょう。
細切れ時間を使っての読書でしたし、読み進むのに時間がかかりましたから、1ページも読めずに、
その日の読書時間が終わってしまう事もありました。
そして再度本を開くのは、数日後だった事もしばしばありました。栞紐だけでは、どこまで(どの行まで)読んだか分からなくなってしまうので、
読んだ行に付箋をつけておいたものでした。
全編を通して緻密な書論が展開されていますが、特に印象に残るのは懐素「自叙帖」の全文字の寸法を測り、
グラフ化した図です。書道の本に全く似つかわしくないグラフをしばし呆然と眺めたものです。
また、特に面白かったのは、蘭亭序八柱第三本の不可解な点をこれでもか、これでもか、と挙げてある所でした。
それくらい言われても仕方がないくらいの墨跡本なのでしょうね。
この本の中で唯一同意できかねる点がありました。篆刻において斉白石を第一人者としている点です。
石川先生自ら「斉白石の篆刻に具体的に指摘できるのは、その世界が深さと重厚さを欠如し、表層的、浮薄に見える点だろう」
と言われているのに、なぜ斉白石を第一にされているのでしょうか?「深さと重厚さ」が篆刻の魅力だと私は思っていますので、
「表層的、浮薄に見える」としたら、その篆刻には、致命的な欠点があると思います。
「斉白石は無意識のうちに、篆刻を書に近づけていたのではないか」とも、石川先生は言われているので、
石川先生は、篆刻を篆刻としてではなく、篆刻を書として見られているのではないかと思ってしまいます。
私は書と篆刻に共通点はもちろんあると思いますが、異なる点も随分多いように感じるのです。
それにしても、篆刻だけでなく、書だって「表層的、浮薄に見える」のはいかがなものかと思うのですが・・・。
「書の宇宙」の中でも篆刻に関して同様な論説が執拗に展開されていますので、石川先生の考えは確固たるものがありそうです。
この本、時間をかけて精読したつもりですが、時間がかかりすぎたため、特に最初の方は忘れてしまっているみたいです。
・・・という事は、また読む必要があるという事でしょう。
書道史の本として、私もこの本を第一に推したいと思います。
でも、2014年現在、残念ながら絶版になっているようです。中古品が流通しているとはいえ、重版される事を期待しています。
2014年9月 記
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