記憶という言葉が頭に浮かんだ時に、書の創作の事が頭に浮かびました。 創作と言う言葉から連想すると、自分の好きなように自由自在に作品を作っているみたいで、記憶とはあまり関係なさそうな気もします。 しかし、書の場合は、古典を基調とした作品作りが望まれます(書に限らず、何にでも基本はあるのではないでしょうか?)。 創作作品を作る時には、あれこれ思い出しながら作ります。いえ、思い出せない事が多いです。 字書を手元に置いて古典をあれこれ参考にします。現代の作家の作品も参考にします。 どれだけ参考資料を見ても満足のいく作品は出来ません。ましてや、参考資料を見なければ、私の頭の中が貧困すぎて話しになりません。 参考になりそうな資料を探し出す事ができれば楽になります。 そうしていると、記憶こそが創作の原点・・・などと思ってしまいます。 熟達した先生方は、それらが、ほとんど頭の中に入っていらっしゃるらしい。しかも、頭の中のイメージを紙の上で再現できる腕を持っていらっしゃる。 腕が覚えているという事なのでしょうか。
昔の話になりますが、私が受験勉強をしていた時代に、授業中、ハッとさせられた記憶があります。 それは「数学は最大の暗記科目である」と先生から言われた事です。私は理科系でしたし、数学はそれなりに勉強してきたつもりでした。 歴史等は暗記科目であるが、数学は応用がモノを言う科目であると思っていて、その言葉をにわかには受け入れる事が出来ませんでした。 しかし、よくよく考えてみると、試験問題は決められた時間内に解かなければなりません。 問題をパッと見た瞬間に、解法がパッと頭に浮かぶかどうかが勝負の分かれ目。解法が分かれば、後はミスなく解答を導き出すのみです。 「解法がパッと頭に浮かぶ」ためには、色々なパターンの問題に当たって解法を覚える事に尽きると言うのが「数学は最大の暗記科目である」の意味なのです。 言われてみれば全くその通りで、良い点数が取れたテストは、スイスイ解答出来たテストで、 ウンウンうなって解答したテストはさんざんな結果になっている場合が多いのでした。
創作と言う呼び方をしますが、どれだけ古典を記憶したかが勝負かもしれません。 しかも、頭で記憶しただけでは不十分で、手で再現できる事が大切です。言うならば、手でも記憶する事が大切です。 釈文をみて、作品のイメージがパッと頭に浮かぶかどうかが勝負の分かれ目(数学の試験の様なシビアな制限時間はないし、 参考資料も見放題なので、パッと頭に浮かばなくても頑張る!)。後はそのイメージに近づくように書作を繰り返すのみです。
一見、応用が大事と思われる「創作」も「数学」のように暗記が肝要だと思います。 しかし「創作は最大の暗記科目である」という言い方は変です。「創作は記憶の賜物」とでも言っておきましょう。
足場の鉄骨が写り込んでます |
この旅行の一年半前・・・2001年3月に徳島の大塚国際美術館に行き、陶板で原寸大に再現されたのシスティーナ礼拝堂を見てきました。 ここを訪れた時は、私達家族以外に、数人の観客しかいませんでした。それはそれは静かな環境で、大変敬虔な雰囲気を味わう事ができました。 本物のシスティーナ礼拝堂を訪れたら、なお一層敬虔な雰囲気を味わえるかと思っていましたが、その期待はみごとに打ち破られてしまいました。
古典の文字をイタリアの絵画のように強烈に記憶できれば良いのに・・・なんて思ってしまいました。 しかし、これは無理ですね。文字の記憶は創作作品を作るための記憶であり、絵画の記憶は、鑑賞作品としての記憶です。 自分で創作作品を作るための記憶は自ずと深いものでなければ役に立ちません。 さらに、創作作品を作るためには、当然ながら自分の手で文字を書かなければなりません。言わば、手で文字を記憶する必要があります。 重ねて厄介なのは、一つの文字に一つの字形を覚えても十分ではないという事です。 創作ですから、その文字を書く位置、前後の文字等によって字形を変える必要があります。それこそ無限の変化があります。 そんな事を言ってたら、古典の文字を覚える必要性って何なの?とも思えてきます。 それでも、古典に立脚した創作作品を作るためには、古典の文字を覚える事が必要と思います。文字全体をそのまま生かせなくても、部分的に生かす事は可能でしょう。 一つの点、一つの線でも作品に生かす事ができます。その文字の雰囲気を反映させるという事もあるでしょう。 そのようにして、古典を創作作品に生かさなければ、我流になってしまいます。 古典は、誰もが認める規範であり、これを生かしてはじめて薫り高い創作作品が出来上がるものであると私は信じています。 何回も臨書を繰り返して、頭と手に文字を記憶させるしかないのでしょうね。「創作は記憶の賜物」ですから。
2022年10月記